御昇天後の主日(2012年5月20日)

2012年5月20日(日)  御昇天後の主日(2級) 御復活節 御復活節は復活徹夜祭のミサの初めから聖霊降臨後の土曜日の九時課までの期間を指します。 典礼上のこの期間には次のものが含まれます。 a)御復活節 復活徹夜祭のミサの初めから御昇天前日の九時課まで b)御昇天節 御昇天祭の最初の晩課から聖霊降臨祭前日の九時課まで c)聖霊降臨祭からの1週間 聖霊降臨徹夜祭から翌週土曜の九時課まで 今週の主日は1960年までは「御昇天後の主日」と呼ばれていました。 聖アウグスティヌスは言いました。我々が主と共に天に昇り心を高く上げるなら、今日、主の御昇天を実直に、忠実に、信心をこめて、聖性のうちに、敬虔な心で祝えるだろう。だから私たちの思いが主のおられる場所にあれば、この世では休息が得られるでしょう。今は心でキリストと共に天に昇りましょう。やがて主の日が来れば、身体もキリストに従うことが出来るでしょう。しかし、傲慢や貪欲、淫乱といった心はキリストと共に天に昇ることはできない、ということを心得ておかなければなりません。もし、我々が自分を癒してくださる方の昇天に付き従いたければ、悪徳や罪といった重荷を捨てなければなりません(本日の朝課)。 今週の主日は聖霊降臨祭の準備の主日です。天に昇られる前にイエズス様は最後の晩餐の席で私たちをみなし児のままにしてはおかず、慰め手の聖霊を送ろうと約束して下さいました(本日の福音、聖ヨハネによる福音書、15,26~16,4、アレルヤ唱)。それはイエズス・キリストによって私たちが全てにおいて神を賛美するためです(本日の書簡、聖ペトロの第一の手紙、4, 7-11)。高間に集まった弟子たちのように、私たちも祈りと愛徳によって(本日の書簡)聖なる聖霊降臨の日に備えなければなりません。その日に「御父に対して私たちの弁護人である(第一夜課)」イエズス様が御父から聖霊を私たちのために得てくださるからです。 入祭唱 Exaudi, Domine… tibi dixit ラッパと歓呼の声は止みました。主は天の父の右の座に着いておられます。使徒たちは山から下り、再びとり残されているのに気づきます。40日の間、御復活のキリストがおられることに慣れていました。御復活のキリストは、教会では灯の灯った復活祭の蝋燭によって象徴されていました。しかしその蝋燭も御昇天祭の日の福音書朗読の後に消されてしまいました。来週の日曜日には聖霊が私たちの知性を照らし、心を暖めに来てくださいます。しかし今日のところはこの光と力を待つ間、いささか途方に暮れ、手探りで探している状態です。詩編26を土台にした、本日の御昇天後の主日の入祭唱が表現しているのはこうした心境です。ダビデはこの詩編の中でまず、自分の光である主への信頼を表現しています。 Dominus illuminatio mea, et salus mea, quem timebo ? 主は私の光、私の救い。私は誰を恐れよう。 詩編のこの最初の部分が入祭唱の歌詞になっています。しかし、人生においてはこの光が隠れているように思える時があります。だからこの詩編の終わりにダビデは信頼を失うことなく、次のような祈りを捧げます。この祈りは使徒たちの祈りでもあり、本日の私たちの祈りでもあります。 Exaudi, Domine, vocem meam qua clamavi ad te, tibi dixit cor meum, quasivi vultum tuum, vultum tuum, Domine, requiram, ne avertas faciem tuam a me. 主よ、あなたに向かって叫ぶ私の声に耳を傾けて下さい。私の心はあなたに申し上げます。私はあなたの御顔を探しました。主よ、私はあなたの御顔を探し続けます。どうか御顔を私から背けないでください。 入祭唱のメロディは静かに、穏やかに、表現力豊に、しかし不安はなく、御顔を探し求める思いと懐かしむ思いを表現しています。最後のアレルヤはほとんど喜びに満ちているとさえ言えるでしょう。このアレルヤはその前の週のCantate Dominoのアレルヤの再現です。 アレルヤ唱 Regnavit Dominus これまでの毎週のアレルヤ唱と同様に、御昇天後の主日の2つめのアレルヤ唱は第一のアレルヤ唱より遙かに長いものです。その上、第一のアレルヤ唱のヴォカリーズ(母音を延ばす唱法)は数々のアレルヤ唱の中でも最も短いもののひとつでしょう。しかしこのヴォカリーズには究極に柔らかいリズムという特徴があります。歌詞は御昇天祭の第一のアレルヤ同様、詩編46を元にしていますが、今回はこの詩編の終わりの章句が使われています。 Regnavit Dominus super omnes gentes, Deus sedet super sedem sanctam suam. 主は諸国の民を統べ治め、神は聖なる座に着いておられる。 詩編のこの最初の部分が入祭唱の歌詞になっています。しかし、人生においてはこの光が隠れているように思える時があります。だからこの詩編の終わりにダビデは信頼を失うことなく、次のような祈りを捧げます。この祈りは使徒たちの祈りでもあり、本日の私たちの祈りでもあります。 契約の櫃は今は神殿に納められ、諸国の民がそれを拝みにやって来ます。同様にキリストは今、天の父の右に座しておられ、キリストこそが全世界の王なのです。アレルヤのメロディより幾分、広がりを持って終わりの部分で展開するこの章句のメロディは、ある種の荘厳さを帯びています。 アレルヤ唱 Non vos relinquam 御昇天後の主日の第二のアレルヤ唱は、第一のアレルヤ唱とは全く異なるものです。先に述べたように、まず第二のアレルヤ唱は第一のものより遙かに長く、またこの2つのアレルヤ唱の間には御昇天祭の2つの側面の持つ対照性があります。つまり天に昇りそこから世界を統べ納められるキリストの勝利の側面と、より憂いを含んだ側面、すなわち使徒たちをまるでみなし児のように残していく別離という側面です。私たちの主がこの第二のアレルヤ唱で語りかけられるのは使徒たちに対してです。この歌詞は、その前の週の主日のアレルヤ唱と同じく、聖ヨハネによる福音書の中の最後の晩餐の後の対話から取られています。 Non vos relinquam orphanos : vado, et venio ad vos, et gaudebit cor vestrum. 私はあなたたちをみなし児のままにはしておかない。私は去るが、やがてあなたたちのもとに戻って来て、あなたたちの心は喜びにあふれるだろう。 御昇天祭の入祭唱に引用されている使徒言行録の、「あのお方は戻って来られる。」という使徒たちに向けた天使たちの言葉は、キリストご自身が告げられた内容の繰り返しに過ぎませんでした。それはただ単にこの世の終わりにキリストが戻って来られる、というだけではなく、数日後に降臨する聖霊と、御聖体によって、教会と人々の魂の中に実在するキリストをも意味しているのです。このアレルヤのメロディは、御復活後第4主日のアレルヤ唱Christus Resurgensのようにたっぷりとゆとりがあり、大きな襞飾りのように広がっていきますが、半音階の数多くの律動によってより優しくなっています。主は使徒たちや私たちに、まるで病人に話しかける時のように、慰めを含んだ調子で話しかけておられます。しかし、gaudebitの部分の喜びを告げる長いヴォカリーズはより断定的です。 奉献唱 Ascendit Deus 御昇天祭の奉献唱の歌詞は第一のアレルヤ唱の歌詞と同じです。それはいずれの場合も例の詩編46の章句です。 Ascendit Deus in jubilatione, Dominus in voce tuba. 神は喜びの叫びのうちに昇っていかれる、主はラッパの音と共に昇っていかれる。 しかし、メロディは全く異なります。面白いことに、たいていの場合、瞑想的な性格を帯びているのは奉献唱の方で、アレルヤ唱はより喜ばしい、明けっ広げな性格を帯びています。ところが今回は反対です。すでに見たように、第一のアレルヤ唱はかなり穏やかで、別離の物憂さを思わせました。奉献唱のメロディでは歓呼とラッパ、つまりキリストの後に従って天に昇る喜びを再び見出すことができます。その喜びを表しているのはゆとりのある荘厳なメロディで、 Ascendit Deusの歌詞の部分のとても表現力豊かな音階の大きな上昇に始まり、相当、動きのある部分がそれに続きます。しかしながら最後のアレルヤは長く、優しく引き延ばされ、通常の場合の奉献唱のように、より瞑想的な雰囲気を取り戻します。 拝領唱 Pater cum essem 御昇天後の主日の拝領唱の歌詞は、第二のアレルヤ唱や、御復活後第3主日と第4主日の場合と同様に、聖ヨハネによる福音書の主と使徒たちの対話から取られています。今回、主はもはや使徒たちに話しかけられるのではなく、御父に話しかけられます。それは一致のための長い祈りで、祭司の祈りとも呼ばれている祈りです。この聖木曜日に告げられた御言葉が、御昇天祭の日のキリストが語られる御言葉ともなっています。 Pater, cum essem cum eis, ego servabam eos quos dedisti mihi ; nunc autem ad te venio : non rogo ut tollas eos de mundo, sed ut serves eos a malo. 父よ、私が彼らと共に居たとき、あなたが私にお与えになった者たちを守りました。今、私はあなたのもとに参ります。私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪から守って下さることです。 このアンティフォナの3つのフレーズはかなり異なっています。最初のフレーズと3つめのフレーズは相当長く、同じアレルヤで終わりますが、2つめのフレーズはとても短いのです。最初のフレーズではメロディはかなり展開していて、動きに満ちています。2つめのフレーズはad te venio (私はあなたのもとに参ります)の歌詞の部分の、喜ばしく肯定的な終止に向かっての長い上昇でしかありません。つまりキリストはここでご自分の使命を果たされ、御父に再び目見える喜びを全面的に表現しておられるのです。3つめのフレーズははるかに穏やかです。今、主はみなし児の状態で残して行かれ、この世にとどまっていなければならない者たちのことを考えておられます。この3つめのフレーズは大変瞑想的な雰囲気のうちに終わります。