御復活の主日(2012年4月5日)
御復活の主日
Haec dies, quam fecit Dóminus : exsultémus et laetémur in ea
今日こそ神の創られた日、この日を喜びと祝いの裡に過ごそう。
(詩編117,24、復活祭主日のミサの昇階唱)
2012年4月8日、御復活の主日
白、主イエズス・キリストの御復活
御復活祭のミサの聖歌は新たな受洗者の喜びと、さらにはすべての贖われた者の感謝を表現しています。しかしこの喜びが弾けるのはようやく昇階唱とアレルヤ唱に至ってからです。
De tempore paschali 復活節
御復活節は復活徹夜祭のミサにはじまり、聖霊降臨祭から始まる週の土曜日の9時課まで及びます。(注1)
典礼上はこの時期に次のものが含まれます。
a) tempus Paschatis 復活節・・・復活徹夜祭のミサから主の昇天前日の9時課まで。
b) tempus Ascensionis 主の昇天節・・・主の昇天の最初の晩課から聖霊降臨前日の9時課まで。
c) octavam Pentecostes 聖霊降臨祭に始まる週・・・聖霊降臨徹夜祭のミサからその週の土曜の9時課まで。
Una Voce France の聖歌&解説の音声は以下のプレイヤーで視聴可能です。
御復活祭主日の入祭唱、”Resurrexi”
この入祭唱の穏やかさとハーフトーンのメロディにはまず驚かされます。
ここは天上の世界で、父なる神に語りかけるのは復活したキリストご自身です。親しみを込めて、父なる神に再び目見えることができた喜びと感謝を述べておられるのです。
Resurrexi et adhuc tecum sum. Posuisti super me manum tuam. Mirabilis facta est scienta tua.
私は復活し、常にあなたと共におります。あなたは私の上に手を置かれた。あなたの知識は驚異の的。
この歌詞は詩編138(注2)の3つの節から成っており、詩編の中では一続きの節ではありませんが、この入祭唱でひとつになっています。ただし詩編においては御復活がテーマになっているのではありません。この詩編はつねに私たちと共にあり、すべての事柄をご存知で、私たちを導かれる神の普遍的な存在を謳ったものです。この詩編の冒頭の部分がこの入祭唱の歌詞として歌われます。
Domine probasti me et cognovisti me, tu cognovisti sessionem meam et resurrectionem meam.
主よあなたは私の心を調べ、私を知り尽くしておられる。あなたは私が寝るのも起きるのも知っておられる。(注3)
けれども御復活の日にはこの言葉はキリストの御言葉となります。Sessionem meamとresurrectionem meamは単に寝ることや起きることを意味するのではなく、十字架上の死と復活を意味し、resurrexiという言葉には十全の意味が込められています。adhucという言葉(今また、恒に)は至福の永遠を表し、その永遠の中で地上での使命を成就された御子は御父に再び目見えます。その使命の間中、神の御手は御子を導き、その使命において神の無限の知恵が感嘆すべきものとして現れたのです。
御復活節の他の聖歌同様、この歌詞は一つ一つのフレーズの終わりがアレルヤで区切られています。ほとんど動きのない、非物質的なメロディは本当に天からのものを感じさせます。このメロディが表現している喜びと愛はあらゆる人間的な感情を越えたものです。
昇階唱、Haec dies
この翌週の日曜日から御復活節の時期全体を通して、昇階唱はアレルヤ唱に取って代わります。つまりミサにおいて、2つのアレルヤが続くことになるのです。しかし御復活の主日とその続きの1週間はまだ昇階唱があり、その最初の部分は毎日繰り返されます。またこの最初の部分は聖務日課のすべての時課で、賛歌の代わりに歌われます。それはまさに尽きることのないキリスト教徒の喜びを表現する復活祭のリフレインにふさわしいものです。
Haec dies quam fecit Dominus, exultemus et laetemur in ea.
今日こそ神の創られた日、この日を喜びと祝いの裡に過ごそう。
この歌詞は詩編117の一節で、感謝を表す復活祭の荘厳な賛歌ですが、その冒頭は昇階唱の第2部にあります。
Confitemini Domino quoniam bonus, quoniam in saeculum misericordia ejus.
主を讃えよ。なぜなら主は善き方、その憐れみは永遠。
この昇階唱のメロディはすでにしばしば耳にしたことのある典型的なメロディで、柔らかく軽やかなヴォカリーズは御復活祭の喜びを表現するに完璧に相応しいものです。このメロディにはその上、独特の表現法が含まれています。それは特に後半部分、quoniam bonusという歌詞の部分で、ただならぬ歓喜を表す高音への大幅な飛翔という形を取っています。
アレルヤ、Pascha nostrum
御復活の主日になってまたアレルヤが再開されます。アレルヤは七旬節と四旬節の間は省かれ、詠唱が取って代わっていました。このアレルヤのもとになっている聖句はとても短いもので、この日に朗読される、聖パウロのコリント人への第一の手紙から引かれています。
Pascha nostrum immolatus est Christus.
屠られた私たちの過ぎ越しの子羊、それはキリスト。
ここではメロディが主役で、活気に満ちた御復活祭の喜びが表現されています。しかしまたこの曲の中のアレルヤの部分がまだなお荘重で抑えた調子なのに対して、聖句の部分、中でもimmolatusという歌詞の長いヴォカリーズが舞い上がり、ほとんど非物質的とも言える軽やかさの高みを飛翔するような印象を与えているのとは対照的であることを指摘しておきたいと思います。
続唱、Victimae paschali
御復活祭主日のアレルヤ唱のPascha nostrumの歌詞の本文の後、普段のように最後にアレルヤという語を繰り返しはしません。何故なら、その後に続唱が続くからです。本日の続唱は、中世に作曲された全ての続唱のうちローマ式典礼に残った5つの続唱のひとつです。
本日の続唱はおそらく11世紀のものです。その特徴は、最初から最後まで一音節一音対応であることと、比較的短い(8節しかない)ことにあります。歌詞は御復活への信仰宣言で、その真ん中に御弟子たちとマグダラのマリアの間のとても生き生きとした小さな対話が挿入されています。そしてメロディがこの対話の抑揚を強調しています。
Victimae paschali laudes immolent Christiani. Agnus redemit oves : Christus innocens Patri reconciliavit peccatores.
Mors et vita duello conflixere mirando : dux vitae mortuus regnat vivus.
Dic nobis Maria, quid vidisti in via ?
Sepulcrum Christi viventis, et gloriam vidi resurgentis : Angelicos testes, sudarium, et vestes. Surrexit Christus spes mea : praecedet suos in Galilaeam.
Scimus Christum surrexisse a mortuis vere : tu nobis, victor Rex, miserere.
過ぎ越しの犠牲にキリスト教徒は賛美を捧げる。子羊が羊の群れを贖った。罪なきキリストが罪人たちを御父と和解させた。
死と生が驚くべき一騎打ちで闘った。命の創り主は死んだが、生きて君臨する。
マリアよ、道すがら何を見たかを私たちに話しておくれ。
私は生けるキリストの墓と、復活されたお方の栄光を見ました。その証人の天使たちと、帷子と布きれを。
私の希望、キリストは復活されました。あの方は弟子たちに先立ってガリラヤに行かれます。
私たちはキリストがまことに死者の内から蘇られたと信じます。そして、勝利の王よ、どうか私たちを憐れんで下さい。
奉献唱、Terra tremuit
御復活主日の昇階唱とアレルヤ唱の溢れる喜びの後、奉献唱では入祭唱の静かで瞑想的な雰囲気が再び繰り返されます。しかし、歌詞は壮大なものです。その歌詞は詩編75から引かれていますが、この詩編は、神の業による大勝利の後の感謝の歌です。
Terra tremuit et quievit dum resurgeret in judicio Deus.
大地は揺れ、やがて静まった。神が審判のため立ち上がられた時。
この詩編で大地というのは、イスラエルの民を隷従させようとした諸国とそこに住む民のことです。これらの民は神の力が働いたとき震えおののき、決定的に打ち負かされて動きを止めてしまったのです。御復活祭の日に関連して、この歌詞の中にはまた聖金曜日の地震や聖土曜日の休息、また審判や地獄の敵の決定的な敗北という結果を伴う御復活への言及も読み取るべきでしょう。
最初の2つのフレーズでは、メロディは低音から始まり、動きに満ちたクレッシェンドへと登りつめ、静かに平和に、しかしながら内面的で神秘的な喜びの雰囲気をとどめたまま再び低音へと降りてきます。3つめのフレーズはアレルヤです。先ほど入祭唱のところで指摘したように、この日の聖歌はアレルヤで締めくくられますが、大抵は短いアレルヤです。それに対してこの奉献唱のアレルヤは結構長めです。このアレルヤは柔軟に展開し、大きな間が空くことはありません。それはまるで終わろうとしない脱魂のさなかの見神体験のようです。
拝領唱、Pascha nostrum
御復活の日の拝領唱では、アレルヤ唱の歌詞の元になった聖パウロの書簡が再び登場しますが、今度の引用はより長いものです。
Pascha nostrum immolatus est Christus : itaque epulemur in azimis sinceritatis et veritatis.
屠られた私たちの過ぎ越しの子羊、それはキリスト。だから混じりけのない誠の種なしパンで祝おう。
この書簡の文脈において、聖パウロは混じりけのない誠の種なしパン(無酵母のパン)を、悪意と邪(よこしま)の古い酵母と対比させています。これは洗礼の泉の中で、子羊の血によって洗い流されたあらゆる悪しき業を退けることにより、私たちが新たに生まれ変わった新しい命の象徴です。この単純で新鮮で甘美な軽やかさを備えたメロディが表現しているのは、新たに生まれ変わった者のこの喜びと清らかさなのです。
(注1)9時課・・・大聖務日課でいう「九時課(Nora)」のこと。
時課の時刻は現代の時刻ではなく、昔、ユダヤやローマ帝国で通用していた時刻によっている。
したがって九時は午後3時ごろにあたる。
(注2)この詩編はフランシスコ会聖書研究所訳註版では詩編139として収録されている。
(注3)フランシスコ会聖書研究所訳註版では「寝るのも起きるのも」の部分が、「座るのも立つのも」と訳されている。
当解説はUna Voce France の WEB SITE の記事の翻訳です。
フランス語の内容はこの記事の内容とほぼ同じです。